映画「ANPO」との旅

映画「ANPO」との旅は「砂川五番」と題した一枚の絵画から始まった。画家は中村宏。描かれていたのは、1950年代の「砂川闘争」。立川米空軍基地の滑走路の延長の為、400年近く耕した農地の接収を拒む農民の露骨な抵抗。それを阻止する警官。ベニヤ板一枚程の緊迫する絵の中心で、縋る眼差の農婦と、無関心に任務を果たす警官が衝突する。国家と個人の本質的な戦いを描いたこの強烈な作品は、日本絵画というよりブルーゲルのヨーロッパやマルケスの中南米を連想させた。たまたまテレビの美術番組でみかけた異質な絵画にかき立てられ、中村宏の回顧展へと足を運んだのは2007年1月のことだった。

展覧会では「ゲルニカ」を思わせる「射殺」やロボット仕立ての青い目の米軍兵がライフルを構えた「基地」等と題した油絵を何十枚も鑑賞しながら、私の全く知らない日本に突然迷い込んだ気持ちになった。夢ではなかった証に「砂川五番」の絵はがきを10枚とカタログを買って帰ったが、既に一本の映画作りの旅が始まっていたことには気づかなかった。

その2年前、濱谷浩の写真集「怒りと悲しみの記録」と出会った時も似たような衝撃を覚えていた。神田の古本屋さんが、「これはきっとリンダさん向きですよ」と勧めてくれた。ページからはみだしそうなモノクロの強烈な写真の中、

日本人達が手を取り合い、腕を組み、 露骨に何かを願い、国会を囲む警察と激しく衝突していた。彼らの顔は希望と怒り、やがては絶望に満ちていた。撮られていたのは「60年安保闘争」。私は日本育ちでありながら、結局アメリカ人だ。写真の中で最も気になったのは羽田空港のターマックでハドルを組む米国男性達の顔に浮かんだ切羽詰まった表情だった。 特権の固まりであったはずの彼らをそこまで 深刻に悩ませたものはいったい何だったのか?何時かこの写真の謎を解き明かし、映像として表現したい想いは既に燻っていた。

本格的に映画作りを始めたのは2008年の初夏。60年安保闘争を中心に、在日米軍基地への抵抗を表すアートはきっと他にもあるだろうと確信し、先ずは中村宏さんに取材を依頼し、回顧展の場所でもあった東京都現代美術館で会った。座るやいなや中村さんが「戦争の後は平和じゃなくて内乱ですよ、内乱」と熱く語り出した瞬間、心が騒いだ。調べ始めたら、私自身に馴染み深かったアーティストの石内都、東松照明、横尾忠則、串田和美、会田誠等の他に続々と知らない名前の絵画家達、池田龍雄、山下菊二、石井茂雄、井上長三郎や 若手の風間サチコまで、40人以上の作家達の作品が候補に上がった。この映画は彼らの至って寛容な協力と「本音」の証言で成り立っているとも言える。

映画を試みる時、最も重要なのは無論、素材やテーマだが、何よりも大事なのはその映画独特のルールである。「ANPO」の基本のルールはナレーション無しで、アートとその作り手の言葉で綴ることと、先ずは決めた。日本で生まれ、アメリカ人の宣教師の娘として日米の狭間で育った私には、ナレーションでえらそうに何かを語る権利も無ければ、「安保」を巡って、正解らしきものも見えてこないからだ。いずれにせよ最も悩んだのはいかにこの膨大な「文化遺産」をもとに、90分以内の時間で物語るか。撮影を終えると、インタビューを英訳し、アメリカ人のエディターとNY在住の日本人ミュージシャンとの10ヶ月の編集という長い旅が始まった。

やがて完成した「ANPO」は至って不思議な映画だと自分でも思う。海外で想定される日本アートとはほど遠い作品を辿り、そのアートに刺激されて作曲された音楽と共に次々と強烈な歴史が蘇り、作家達は自身の記憶や創作の試行錯誤を語る。戦争体験に始まり、終わりの無い「戦後」を描写しながら、映画をどうやって終えるか迷った。その時、横須賀で育ち、米軍基地から受けた「傷」に直面する為、横須賀の街を写真に捕らえた石内都さんの言葉に救われた。「傷ついたままではイヤだった。」人間の本質を表現するアートは全てこの言葉から始まると思う。そして、「ANPO」を世に出して解ったことは、それが私の「ANPO」の旅の終わりの言葉にもなることだ。

今年の6月に「 ANPO 」は完成し、トロント映画祭に招待され、日本での劇場公開は9月から始まった。東京で公開後、先行上映と地元紙の取材で地方都市を回ることになった。各地の映画館からの招待はとても嬉しかったが、内心、広島での上映の反応が気がかりだった。私の広島への拘りは山口と愛媛で育ち、日本の小中学校に通ったことから始まった。小学校4年生の授業で広島の原爆投下について教師が語った時、日本人の生徒達は全員私を振り返った。その瞬間、子供なりに「加害者」という居心地の悪い場所に立った。その記憶は生涯のトラウマとして心に深く刻まれ、 大人になってからも広島への旅は長い間避けた。  

そんな想いを心に秘め、広島のサロンシネマでの上映後、質疑応答の為、壇上に登りながら、観客の熱い拍手に混じって強烈な音楽がかかっていることに気がついた。良く聞くと本編で闇市の米軍兵のレープシーンを引用した「仁義なき戦い」のテーマだ。びっくりして言葉を無くした私に、司会の方が、「僕たちの街の音楽で歓迎したいのです」とにっこり笑ってくれた。原爆の被害者への謝罪を生い立ちに背負った私にとって、涙する程嬉しい歓迎だった。翌日の地元の記者会見場には、映画館の人達が横断幕を貼ってくれていた。「天晴れリンダ監督!日本人ができなかった事をやってくれた」。又もや言葉を失った。原爆の加担者の一人として、最も立場の無いはずの街の人達が誰よりも熱く私の映画を進んで抱きしめてくれたのだ。

数日後、バンクーバー映画祭での上映後、ある女性に声をかけられた。「私は原爆の父親とされる、エンリコ・フェルミの孫です。質疑応答で、あなたが原爆の加害者であるような体験を語った時、やっと私の背負ってきた罪悪感と似たようなものを持つ人に出会えて嬉しかった」。彼女の言葉を聞き、心の中に宿るはずのトラウマを探したがそこにはもう無かった。どうやらその重荷は広島の人達が私の肩から下ろしてくれていたようだった。映画「ANPO」との旅路は思わぬ場所で終点に辿り着いていた。